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米山記念奨学生チョウガクンさん歓迎会開催!

令和4年6月8日(水)に米山記念奨学生の張雅君(チョウガクン)さんの歓迎会を開催しました。場所は金沢市野町1丁目のイタリアンレストラン「Ristorante SUGIYAMA」です。

北川雅一朗委員長の司会で、まずは参加者一人ひとりの自己紹介。その後、藤澤会長の挨拶・乾杯で会食スタートとなりました。趣向を凝らした料理にマッチしたワインは、北川委員長のセレクト&抜栓です。

張雅君さんは中国の四川省成都のご出身。金沢大学で「日本と中国の環境への取組み」を勉強されています。日本語が堪能で積極的に皆とお話され、ちょうど出来上がった「ロータリークラブ名刺」を受け取ると早速開封して皆と名刺交換を。日本流の名刺の渡し方も学びました。

四川といえば辛い料理で有名。食について質問すると、日本の料理は甘く感じるらしく「日々辛いソースを持ち歩いてる」とのことです。

楽しい会はあっという間に時間が経ち、いつのまにかテーブルにはデザートとデザートワインが並んでいます。最後にカウンセラーの松崎秀規会員から締めのご挨拶をいただき閉会となりました。

張雅君さんにとって、日本での体験が有益で素晴らしいものになることを願います。

(記 新田 一也)

 

 当クラブは、ウクライナから石川県に避難してきたオレーナ・ミロツカさんに対し、藤澤年度、中川年度に亘って生活費支援をおこなうことを決め、6月8日の例会で藤澤会長からオレーナさんに生活支援金が手渡されました。以下は例会でのご挨拶の内容です。

こんにちは、本日は金沢ロータリー・クラブの例会にお招きいただきありがとうございます。私は、ルハンスク州セベロドネツク市で生まれ育ったオレーナ・ミロツカです。

私にとって戦争(これはロシアの「解放者」が呼んでいるような「侵攻」や「特別作戦」ではありません、この戦争)は、私たちの街のすべての住民にとってそうであったように、突然に始まりました。青天の霹靂のようでしたが、この恐怖を速やかに終わらせる希望はそのころは未だ抱いていました。

私は、病気の老母を抱えていたので、どこかに行かなければならないとは思いもしませんでした。

戦争当初、私は医療関係の仕事に就いていました。戦争が始まってからは、爆撃や砲撃が激しくなったので、地下シェルターで生活することになりました。いわゆる防空壕のようなところに、まともな環境も整ってもいないのに、母もそこに連れていって一緒に居たのです。そこで母が亡くなるまでです。

私は母を埋葬した後、ロシアの自称「解放者」たちは留まることを知らないこと、私たちは彼らにとっての消耗品なのだ、と悟りました。そして、ようやく私はウクライナを去ろうと決心しました。迷うことなく日本に行くことにしました。息子は日本に住み、そこで働いているからです。

そして今、私はロシアの自称「解放者」に問いたい、あなた方は何から、誰から私たちを解放したのですか?

私は母を埋葬し、生涯をかけて稼いでやっと1年前に買ったアパートを失い、とても気に入っていた自分の仕事も、毎週末、仕事の後に休暇を過ごす場所だった夏の別荘も失いました。でも、私はまだ生きています。

温かく迎えてくれた日本、助けてくれた政府機関や多くの民間の人たちに感謝しています。私はようやく日本に適応し始めてきました。日本の全てが好きですが、特に生魚が好きです。

今も私は生き続けています。これが一番大切なことです。

皆さんに本当に感謝しています、ありがとうございました。