ラグビーを通じた社会奉仕
日本銀行
金沢支店長
宮田 慶一

 10 歳の時からラグビーを始め、半世紀近くが過ぎました。いまだに現役を続行していますが、体力の衰えは隠せず怪我が絶えません。怪我にまつわる失敗談は数多く、パリ事務所勤務時に、額の傷を針で縫ったまま総裁を空港で出迎えたことや、骨折で腕をつったまま全役員の前で報告に臨んだこともあります。こうした反省もあり、最近は試合の参加回数を減らし、もっぱら小学生向けのラグビーのコーチとして汗を流しています。

ラグビーのコーチを始めて今年で14 年目になります。もともと、娘と息子がラグビースクールに入っていた縁で始めましたが、娘や息子が卒業した後も、ラグビーに対して少しでも恩返しができればという思いで続けています(写真は先日試合で金沢を訪れた娘)。金沢に赴任してからは、地元のラグビースクールで教えています(写真)。ラグビーを通じて子供たちに一番伝えたいことは、仲間を大切にする心です。ラグビーは15 名で行いますが、one for all, all for one(一人は皆のために、皆は一人のために)という考え方を大切にします。また、ラグビーでは、試合終了のことを、ゲーム・オーバーではなく、ノーサイドと呼びます。まさに、試合が終われば敵味方の区別がなくなるということです。実際、試合が終わると、お互いのチームが相手のチームの健闘を讃えて握手をします。さらに、試合後に着替えをしてから別室で、両チーム一緒になって懇談するのが習わしです。個人主義が重視される世の中にあって、同じ価値観を共有する者が、チームという立場を越えて、お互いに尊敬し、助け合うことの大切さを子供に学んでほしいと思います。この点、ロータリーの奉仕の精神とも相通じるところがあるかもしれません。

金沢での生活もいずれノーサイドになりますが、ラグビー同様、本当の交流はノーサイドになってからです。ロータリーも含め、この地で得た仲間との縁を一生大切にしていきたいと思います。

派遣交換学生月例報告 4月分
交換学生氏名 長野 可奈
(アメリカ)Clarence RC

○健康状態
良好です。

○学校の状況
友達と毎日楽しく過ごしています。

○ホストファミリーとの関係
彼らは毎日忙しいですがとても良い人たちです。

○ホストロータリークラブとの関係
バッファローにある大学のロータリー活動をしているクラブのミーティングに参加させていただきました。

○その他近況等の報告
アメリカに来て8ヶ月が過ぎました。ついこの間まで今日はエイプリルフールだ!!!と盛り上がっていたように思います。4月19 日から28 日まで春休みでした。19 日にホストマザーとホストシスター2人で約2時間かけてガラス美術館に行って来ました。ガラスの美術館なだけあって全てガラスでできていて、展示物だけではなく、トリックアートやどうやってガラスができるのかを見物したりととても楽しかったです。日本人の人が作った綺麗なガラスのアートがあってなんだかとても嬉しかったです。いつもホストファミリーは忙しいのでみんなでどこかに出かけたりするのは滅多にないことなので、美術館に行くことができてとても嬉しかったし1日がとても充実した日になりました。
4月26 日から28 日までの3日間はロータリーの方でジェームズタウンウィーケンドがありました。アウトバウンドとインバウンド全員が集まって一緒に過ごしました。2月にカナダのアルガンクインにアウトバウンドとインバウンドで行きましたが、チーム1とチーム2に分かれていて私はチーム1だったのでチーム2のアウトバウンドの人たちを知りませんでした。しかし今回のジェームズタウンウィーケンドという機会でみんなお互いのことを知ることができて仲良くなれたのでまた友達が増えて嬉しかったです。夜に長い間ダンスパーティーがありました。最後にはみんなクタクタでしたがとっても楽しいダンスパーティーになりました。氷のリンク上でサッカーもしました。みんな滑って転びまくっているのを見るのはとても楽しかったし、自分もたくさん転んで腰を痛めましたが本当に楽しかったです。
アウトバウンドで日本に留学する男の子が1人います。2610 地区に行くことになったと言っていました。石川県か富山県かはまだわかりませんが、私は彼が日本にくるのをとてもたのしみにしています。彼の役に少しでもたてたら良いなと思います。アメリカに来て8ヶ月経ったので日常会話は普通にできるようになりました。英語が苦手で話すことができなかった私にしてみれば上達した方なのではないかなと思います。残り少なくなって来ましたが最後まで1日を大切に過ごしていきたいです。

 

《tea break》茶人としての前田利家

 前田利家(1539-1599 生年に諸説有り)は加賀藩の藩祖として知られていますが、同時に武将茶人としての顔もありました。利家の生涯をみていくと織田信長に仕えていた時期は戦国の世を駆け巡っていて茶の湯に関心を持つ余裕はなかったと推察できます。天正9年(1581)に能登一国の国持ち大名となる頃になると、茶会の記録に名前が見いだせるようになります。天正15 年に催された「北野大茶会」では豊臣秀吉と同座している記録もあり、金沢の地でも茶の湯を持って立ち寄った大名を饗応している記録もあり、数年の間に茶の湯の理解者として成長していったと想像することが出来ます。「文禄・慶長の役」に際しては肥前名護屋の陣屋に茶室を設け、秀吉を招いた茶会も招いています。玉澗筆の瀟湘八景図「洞庭秋月図」や大名物 茄子茶入「富士」を所持していたことも知られています。茶の湯の師匠は千利休とされていて、利休没後は織田有楽斎が指導したとされています。